<仏教美術>
地域の遺産-日常に息づくあつい信仰

相良氏入国以前、山脈と川に囲まれ、閉鎖された空間で均衡状態を保っていた領主たちは、寺院を造りつくることで、お互いに力を誇示しあいました。

奈良時代ごろまで仏教は、天皇や公家などの身分のものでしたが、平安時代以降には地方の有力な豪族が造主となり、全国各地に多くの寺社が創建されていきました。権力者が寺社や仏神像を造る背景には、信仰心とは別に、自らの権力を周囲に知らしめる目的もあったのです。国内での仏教の浸透とともに、平安時代には貴族から地方豪族へ、やがては集落の庄屋や裕福な商人へと広がっていきました。

相良氏入国以前も、球磨郡では領主たちによって仏教文化が取り入れられ、多くの仏像が造られていました。平安時期の仏神像は約80点―。一群規模としては全国的にみても異例の数量です。

鎌倉時代に相良氏が入国し、その様相に変化がありました。天皇家との結びつきが強かった相良氏より、鎌倉時代の都の流行スタイルであった運慶・快慶に代表されるような写実的な仏像が持ち込まれ、造像されるようになっていったのです。

このように、相良氏は仏教美術の面でも新しい文化を人吉球磨地域にもたらしました。しかし、旧領主たちが築いた文化を一掃することはせずに手厚く保護し、その維持管理を領民たちに任せました。そのことが神仏を中心とした地域のアイデンティティを育むことにつながったと考えられます。

人吉球磨 日本遺産 HITOYOSHI-KUMA JAPAN HERITAGE【Story 02 : Buddhist Art】〈仏教美術〉動画

人吉球磨 日本遺産【仏教美術 構成文化財】

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