「相良700年」-人吉球磨の文化の礎
人吉球磨地域は、古代まで遡れば『古事記』『日本書紀』の神話にも登場する地方豪族「熊襲」が治めていたとされます。10世紀になると球磨郡には人吉・久米・球久(くく)・東村・西村・千脱(ちぬぎ)の6郷があり、それぞれの地を須恵氏や人吉氏といった在地領主たちが治めるようになっていました。
その歴史のターニングポイントは、鎌倉時代に相良氏がやって来たことです。鎌倉幕府の命により多良木荘の地頭を任ぜられた相良氏は、そこを拠点に在地領主たちとの戦いを制し、領地を拡大していきました。
相良氏の政策で特徴的なのは、新しい文化を持ち込むだけでなく、旧来の豪族たちが築いた文化を一掃せずに遺し、手厚く保護したところです。通常であれば、旧領主の築いた土地の文化は一掃して一から国づくりを始めたいところですが、相良氏はそれは領民の不満を募らせることにつながると考え、旧領主の菩提寺を手厚く保護し、地域の阿弥陀堂を修繕するなど力を注ぎました。
相良氏はその土地に根付く文化、建造物など心の拠り所となるものを認め、寛容に受け入れたからこそ、多くの貴重な文化財が人吉球磨地域に遺り、今現在も受け継がれているのです。
また、相良氏が700年続いた理由の一つには、最良の判断をした家臣たちの姿もかかせません。時代を読むちから、動向を分析できる能力をもった人たちの存在で統治もうまくいき、民衆たちも心を寄せるようになりました。領主と民衆が心をひとつにし、地域の文化を守り、新しいものを取り入れた独自の文化が人吉球磨には刻まれています。